犯罪季評

2020年8月14日

昭和60年代前後の数年間,朝倉喬司の執筆活動を追ってさえいれば,興味深い事件,表現などに遭遇できる時期がありました。今世紀に入ってからの興味深さと,それはどこか決定的に違うものだったように思います。

出品する前に『犯罪季評』を読み返しながら,朝倉喬司が関係した犯罪に関する読み物(のすべてではないにせよ)に,(笑い)が行間に充溢するどころか,誌面に出てきたことを思い出します。

1980年代というのは,今の基準に照らしてみると喜怒哀楽がまったく異なって表されたように思います。本書を読み返しながら,今の基準がまっとうなのであって,当時が妙だったことに,ようやく気づきました。

事件犯罪に関して書かれたもの求めたのは,行間の(笑い)だった気がするのです。魔の抜けた,にもかかわらずそれは殺人事件であったり,詐欺事件であったり。書き手の怒りをストレートに伝えるのではなく,喜怒哀楽がズレて伝わるような伝え方。それは特殊なことではありません。おのずと沸き起こるであろう感情を違和感で一度,吊るしてから落とすような感じ,といえば少しは当時の様子に近づくかもしれません。なぜ,そんなめんどくさいことをしようとしたのか,実際にしたのか,理由はよくわからないのですが。

90年代に入ってからの悪趣味ブームは,喜怒哀楽のズレを意図的にしたもので,80年代の必ずしも意図的ではなかったそれと,どこかで決定的に違うものでしょう。

『犯罪季評』の朝倉喬司の発言がとても面白い。長い発言が続き,どちらが言っている内容か見た目でわからなくても,これは朝倉喬司だろうとあたりがつきます。

たとえば,

現実に対する感覚が鈍っている分,情報に対して過敏になるというおかしな身体のありかたを感じます。

同書,p.182.

朝日新聞名古屋支局襲撃について,

声明文の中の「うその言論で日本民族をほろぼそうとしてきた」というのは,局所的に何かを注入されて出てくる概念ですね。「うその言論」とパッと言っちゃうという短絡がある。そういう要素は確かに日本のジャーナリズムにあります。ただ,それは凝縮された集団性をつくるような論理じゃないはずなんです。もうちょっとスリリングで先鋭な論理が基軸にならないと,こういうことをやる集団はできないはずです。

同書,p.203.

(中略)

いちおうイデオロギッシュな背景を擬装しているわけですよ。ところが,60年代を生きてきたぼくらからみると,イデオロギーに免疫がなさすぎるという感じがするんです。たとえば「反日分子」という言葉を公にするには,そうとうイデオロギーを相手のゲームをしてこなければなかなか言えない。言っている自分が怖くなるはずなんです。イデオロギーってものが社会の隅のほうに押しやられた結果,ちょっとしたことで敏感に感応しちゃうような部分が出てきたのかしら。

同書,p.204.

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タイトル犯罪季評
発行年1991年
定価300円
状態

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